TOSCANA / SIENA
美しき古都シエナを歩く
赤茶色の屋根が連なり、丘の起伏に沿って家々が重なっていく。遠くに白黒の大聖堂が静かに浮かび、空は思いのほか広い。 保存された町並みの美しさだけでなく、色や光の入り方まで含めて“中世の空気”が今も息づいている。 この景色を前にすると、自然と歩き出したくなる、それが古都シエナだ。
大聖堂とピッコロミニ図書館
DUOMO & PICCOLOMINI
シエナの旧市街を歩いていると、白と黒の縞模様が空の光を吸い込むように立ち上がる。 この街の象徴、シエナ大聖堂。外観の繊細さに圧倒されるけれど、本当の驚きは中に入ってから訪れる。
ドアをくぐった瞬間、空気が変わる。高いアーチ、幾重にも重なる柱、床に広がる装飾。 「こんな場所をよく作れたな」と、誰もが一度は心の中でつぶやいてしまうことだろう。
奥に進むと、ピッコロミニ図書館の息を呑む空間が現れる。壁と天井を埋め尽くすフレスコ画の色彩は、 絵を見るというより“浴びる”感覚に近い。
街が静かに息づく場所
THE QUIET RHYTHM OF SIENA
シエナの道は、どこか不思議な静けさをまとっている。観光都市の喧騒とは少し違う、 暮らしの気配に近い静けさだ。坂を上ったり下ったりしながら歩いていると、息が切れるほどではないのに、 身体のリズムが少しずつ街に合っていく感覚になる。
石畳はしっとりとして、曇り空の下では穏やかな色に変わる。角を曲がるたびに人の影が揺れ、 窓辺の植木鉢や干された洗濯物が、ここに暮らす人の時間を少しだけ教えてくれる。
シエナで味わう日常の一皿
TASTES OF EVERYDAY SIENA
カンポ広場のそばに、見た目はごく普通なのに、忘れられない味を作る店がある。 Il Bocconcino。地元の人も観光客も、ここではメニューを前に少しだけ迷う。 39種類のパニーニ。そこにソースやチーズの追加を合わせれば、選択肢はほぼ無限大だ。
パンは注文後に軽くトーストされ、外は香ばしく中はふんわり温かい。 生ハムは熱で脂がじわっと溶けて、チーズだけが静かにとろける。 ただ組み合わせが多いだけの店ではない。 ひとつひとつ作り方に“理由”があって、だから美味しい。
歩き疲れた午後には、トスカーナのローカルドリンクがよく合う。 Papiini の瓶ジュース。SPUMA BIONDA(甘いサイダー)や CEDRATA(柑橘の香り)を片手に、 広場の縁に腰掛けてひと休みすると、ただの休憩が“小さな思い出”に変わっていく。
夜は、Osteria Permalico のラザーニャ・ビアンカとビステッカを。 大げさな料理ではないけれど、それぞれに丁寧な仕事があって、 「シエナで食べると、どうしてこんなにおいしいんだろう」と思わず呟きたくなる。
特別なレストランでなくても、シエナの食はいつだって誠実だ。 旅の途中でふと訪れる味が、静かに記憶に残っていく。
パリオの鼓動
PALIO — PRIDE OF SIENA
年に二度だけ、シエナの空気がわずかに高ぶる日がある。
7月2日〈聖母マリア訪問の祝日〉
8月16日〈聖母被昇天の翌日〉
この二日間だけ、カンポ広場は砂で覆われ、街がひとつの鼓動を持つ。
17ある地区(コントラーダ)のうち、走れるのは10組。二度目の開催では、前回出場できなかった7地区が優先され、残る3枠は抽選。 同じ年に二度走れることは“ほとんど奇跡に近い”と言われ、その誇らしさは掲げられる旗や装飾にも自然と表れる。
コースはおよそ300mを3周。緩いカーブなどひとつもなく、急旋回の連続。騎手が落ちても、馬がゴールすれば勝ちとなる独特のルールは、 “馬こそ主役”というこの祭りの精神そのものだ。
自分が訪れたのは開催日ではなかったけれど、広場に立つと、不思議と熱気の残り香がある。建物に掲げられた旗や、 店内に飾られた優勝の写真を眺めていると、「この街の誇りは日常の中に息づいているんだ」と自然にわかる。
パリオを知らずにシエナを語ることはできない。けれど、ほんの少し触れるだけでも、この街の心臓のリズムが感じられる。
あとがき
AFTERWORD
シエナには、季節ごとに街の鼓動が変わる瞬間がある。夏は、石畳に残る熱と人々のざわめきが重なり、 息遣いが少し荒くなるような、前へ押し出される活気が満ちていく。
やがて秋が近づくと、トスカーナの丘は深い色に染まり、街もどこか落ち着いた影をまとう。 それは寂しさではなく、季節がゆっくりと姿を変えていく静かな余韻だ。
冬の訪れとともに、シエナはそっと歩みを緩める。冷たい風が曲がり角を抜け、澄み渡る空が広がると、 街はまるで短い眠りに入ったように、重ねてきた歴史を抱えて静かに息をつく。
そして春の柔らかな光が差すころ、その静けさはゆっくりと温度を取り戻し、ふたたび人々の暮らしへと溶けていく。 季節の移ろいの中で、街は衰えることなく、ただ自分のリズムで呼吸を続けている。
シエナを歩いた時間が心に残るのは、季節の息遣いまでが、旅人の中に静かに染み込んでいくからだ。