中世の煉瓦造りの砦カステッロ・ディ・ジュリオ IIの外観
Ostia Antica / Castello di Giulio II

中世ローマを守った軍事基地を歩く

テヴェレ川の“入口”を固めた、知られざる砦の内部へ。

序章:思っていた“軍事基地”とは違う、小さな砦

オスティア・アンティカ駅の出口を抜け、のんびりした木陰の道を歩いていくと、 やがて視界の左側に、そっと赤茶色の壁が現れます。 それが カステッロ・ディ・ジュリオ II(ユリウス2世の城)。 中世ローマの“玄関口”を守った軍事拠点……のはずなのに、第一印象は意外にも——

「あれ? 思っていたよりコンパクト。」

軍事基地と聞くと、もっと巨大で、ゴツくて、複雑な建物を想像するものです。しかし目の前にあるのは、まるで小さな古城のようにまとまった、 静かで落ち着いた佇まいの砦でした。

しかし、その“控えめな見た目”とは裏腹に、 ここが担っていた役割はとても大きいものでした。 この砦は、ローマへ流れ込むテヴェレ川の入口を24時間見張る、 「ローマ防衛の第一線」 として築かれたのです。

階段の段差、狭い通路、外を見張るための小さな窓。 内部を歩くほど、この砦が“機能としての防衛建築”そのものだったことが伝わってきます。 コンパクトなのに、妙に説得力がある構造——それが最初の印象でした。

そして屋上へ上がると、まっすぐ伸びる並木道の先に オスティア・アンティカ遺跡が静かに広がっています。 小さな砦が、大きなローマを支えていた理由がその瞬間にわかります。

砦への入り口へ続く小道。煉瓦造りの壁と木陰の柔らかい光。

これから歩いていくのは、ただの古い建物ではありません。 ローマを守るための“機能”がそのまま残った、中世の軍事建築。 その内部を、写真と共に巡っていきましょう。

第1章:砦の内部へ ― かつての“戦いの拠点”を歩く

From the courtyard to the narrow corridors.

カステッロ・ディ・ジュリオⅡ 中庭の様子

入口の石壁をくぐると、視界が一気に狭まり、外からの光と音がゆっくりと遮断されていきます。 最初に現れるのが、この細長い中庭です。壁はところどころ剥がれ、窓枠の石も少しゆがんで見えます。 それでも全体としてはどっしりと落ち着いていて、 「思っていたより、ずっとコンパクトな砦だな」 というのが最初の印象でした。

巨大な要塞ではなく、必要な機能だけをぎゅっと詰め込んだ、 “実務的な軍事拠点”としてのサイズ感がここにはあります。 同じ場所で左側に視線を移すと、雰囲気は少し変わります。 壁際には砲弾のような石、装飾を失った彫刻片、古い井戸の縁が無造作に置かれていて、 ここが単なる住居ではなく、防衛と実験のための空間だったことが分かります。

狭い中庭を囲う壁は、外から見ればただの城壁ですが、内側から見ると 「敵の動きをコントロールするための箱」 のように感じられます。限られた空間の中で、
・人の動線を絞る
・見張りやすい窓配置
・上階へすぐ逃げ込める階段
といった工夫が、静かに積み重ねられています。

砦内部の井戸や石片が残る中庭の一角

中庭の突き当たりまで進み、右手の入口から建物内部へ入ると、空気が一変します。 細長い回廊と緩やかな階段が続き、足元のレンガは矢羽模様で敷き詰められています。 横から差し込む光以外は暗く、正面はほとんど見えません。

この通路が細く長いのは、敵の侵入を一気に許さないため。 突破されたとしても、 細い通路で進軍を止める、上階からの攻撃を受けやすくする といった “時間を稼ぐための構造” が採用されています。 そして回廊の天井に残るフレスコ画が、この砦の二面性を象徴しています。 ここは軍事施設でありながら、司教の居館としての役割も持っていたため、 防衛の構造と祈りの装飾が、不思議なバランスで共存しているのです。

装飾が残る細い回廊と階段

第2章:砦が生まれた歴史とその役割

Why this fortress was built here.

中庭から回廊を進んでいくと、小さな展示スペースにたどり着きます。 ここには、砦の模型、当時の地図、川の流路を描いた版画、 そして中世のオスティアを再現した古い絵画が並んでいます。

展示室

一見すると素朴な展示ですが、実はこの部屋こそ、 この砦が生まれた理由をもっとも端的に物語っています。 「なぜここに砦が建てられたのか?」 「ローマは何から身を守ろうとしていたのか?」 「この地域で何が起こっていたのか?」 —— 展示パネルには、その答えが静かに示されています。

この章では、展示スペースの内容を“現地で読み解く”ように、 砦の歴史、当時のローマの姿、そしてここが担っていた役割を 時系列で紐解いていきます。

展示室のパネル縦

1. ローマを70年も弱体化させた「教皇不在の時代」

この砦の歴史を語るうえで避けて通れないのが、 アヴィニョン捕囚(1309–1377) です。 これは、フランス王が教皇を政治的に支配しようとし、 教会の中心がローマからフランスへ移されてしまった出来事でした。

そのため約70年間、ローマ教皇はフランス・アヴィニョンに“移住”し、 ローマは宗教の中心も政治の中心も失います。 権力者が都市を離れ、税収は減少し、インフラは老朽化し、 都市の衰退が一気に進みました。

2. 追い討ちをかけた「教会の分裂」―― 大シスマの混乱

教皇がローマへ戻った後も混乱は続きます。 1378~1417年、教会分裂(大シスマ)によって、 教皇が複数存在する異常事態が40年近く続きました。 その結果、聖職者同士の対立や腐敗が増え、 市民の宗教的信頼が揺らぎ、都市を統率する力が弱まっていきます。

3. 経済の中心が“ローマ以外”に移ってしまった

15世紀のイタリア経済の中心は、 ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノでした。 一方ローマは宗教都市で、商業の比重も小さく、経済的地位は低下していました。 税収の減少、人口流出、都市整備の停滞が重なり、 ローマは経済的にも弱体化していきます。

4. 都市の安全を損なった“治安崩壊”

当時のローマは治安が悪化し、 貴族同士の武力抗争、夜間の強盗、傭兵団の流入、盗賊の横行が記録されています。 警察組織や常備軍が未整備だったため、 首都でありながら自力で治安を維持することが難しい状況でした。

5. 最も深刻だった“海からの脅威”

オスティアはローマ唯一の海の玄関口で、 食料・物資・交易品のすべてがここを通っていました。 しかしこの地域には海賊の襲撃が頻発し、商船の略奪も記録されています。

オスティアの防衛はローマの生命線であり、 ここが攻め落とされれば都全体が危機に陥る状況でした。

6. 改革を進めた“戦う教皇”ジュリオII世の登場

この状況に立ち向かったのが、後に“戦う教皇”ジュリオII世と呼ばれる人物です。 彼はローマの防衛、都市整備、軍事再編を積極的に進め、 その一環としてこの砦の建設を命じました。

展示室パネル

6-1. “戦う教皇”ジュリオII世とは何者だったのか?

砦の名にも刻まれているジュリオII世(ユリウス2世)は、 ローマ史でも極めて異色の存在です。彼は教皇でありながら、 軍隊を率いて前線へ向かった「戦う教皇」として知られています。

教皇領を取り戻すためなら自ら馬に乗って戦場へ向かい、 都市国家の包囲戦や領土奪還を指揮した記録も残っています。 この“軍事教皇”としての側面が、砦の建設と深く結びついています。

さらにジュリオII世は、軍事だけでなく文化事業にも莫大な資金を投じました。 彼の治世は、ルネサンス芸術が最高潮に達した時代とも重なります。

  • ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂の天井画を命じる
  • ブラマンテ:新サン・ピエトロ大聖堂の建設を開始
  • ラファエロ:ヴァチカン宮殿「ラファエロの間」を制作させる

つまりジュリオII世は、軍事と文化の双方を刷新した“ルネサンス期の巨大権力者”でした。 砦内部に残る豪華なフレスコ画は、この時代の価値観—— 「権威は芸術によって示される」——を象徴しています。

この砦は、ジュリオII世が進めたローマ防衛ネットワークの一部であり、 彼の政治と軍事の思想が形となった建築と言えます。

7. この砦は“三つの顔”を持っていた

① 軍事拠点(ローマの防衛ライン)
海賊監視、敵船攻撃、テヴェレ川の監視など、 ローマの入口を守る最前線として機能しました。

② 税関・行政拠点
商船の検査、税徴収、貨物管理など、 経済活動の統制もこの砦の役割でした。

③ 権威の象徴
壁に刻まれた教皇紋章が示すように、 この砦は「ここは教皇領である」というメッセージそのものでもありました。

展示室パネル

8. そして自然が砦の運命を変えた――1557年の大洪水

1557年の大洪水でテヴェレ川の流路が変わり、 オスティアの港は機能を失います。 これにより砦の軍事的価値は急速に低下し、 後の時代には牢獄や倉庫として使われるようになりました。

第3章:砦の構造を読み解く

The defensive logic revealed by the model.

展示室の中央に置かれた精巧な模型は、この砦の構造が「ただの古城ではない」ことを一目で示しています。 ぐるりと円を描くように部屋が並び、中央へ下りていく空間、厚い壁に開けられた射撃孔など、 どの角度から見ても “戦うための知性” が詰まった造り であることが分かります。

砦の模型

① 中央塔が“最後の砦”だった

模型の中心にそびえる巨大な円形の塔は、この建物全体の心臓部です。 最も堅牢な建材で作られ、外壁が突破された際の 最終防衛線 として機能しました。

② 円形構造は“死角を作らない”ため

模型を横から見ると、塔の周囲に扇形に広がる部屋が連なっているのが分かります。 円形の砦は、敵に狙われやすい角が生まれず、どこから攻撃されても防御側が迎撃しやすくなる、 中世軍事建築の合理的な形状 です。

砦の模型

③ 厚い壁と小さな窓は“射撃”のため

下層部の厚い壁には、外から見るとわずかな開口部しかありません。 これは牢屋の窓ではなく、射撃孔(フィアッチョラ)で、外からは見えにくく、 中からは敵を狙いやすいよう設計されています。

④ 地下の円形空間は“補給と防衛”の要だった

中央塔内部の円形が重なる空間は、水の貯蔵や火薬庫として使われていたと考えられています。 火薬は衝撃に弱く、湿気や温度管理が重要なため、砦の最も堅牢で安全な中心部 に置くのが合理的でした。

砦の模型

⑤ 常駐していた兵士の人数

模型から内部空間を確認すると、大人数が暮らせる構造ではないことがよく分かります。 中世の教皇領の砦の運用実態や、この建物の広さを踏まえると、 平時に常駐していた兵士は20〜40名ほど が現実的です。

模型のある部屋

砦の役割は大軍を抱えることではなく、河口の監視や異変の知らせを送ることでした。 危機が迫るとローマ市内から増援が送られるため、小規模でありながら重要な拠点だったのです。

⑥ 文化を残す“もう一つの役割”

展示室の壁に残る古代オスティアのモザイクは、この砦が軍事施設でありながら、 古代遺跡の保管庫としての役割も担っていたことを示しています。 武骨さの中に文化の気配が残っており、この建物が単なる要塞以上の存在だったことが伝わります。

モザイク画の展示

第4章:屋上に仕掛けられた“最後の勝利装置”

How the rooftop turned defense into victory.

内部の螺旋階段を上りきり扉を抜けると、視界が一気に開ける。 静かな青空と整然と並ぶ胸壁の美しさとは裏腹に、この場所はかつて“敵を確実に無力化するため”に もっとも合理的に設計された空間だった。 ここからは、砦が誇る最終防御ラインの仕組みを写真とともに見ていく。

① 360°の視野を確保する「環状の屋上」

屋上は塔と外壁をぐるりと囲むように設計され、四方の視界を完全に確保している。 中世の戦いにおいて、視界の広さはそのまま勝敗を分ける要素。 ここに立つ兵士は、少人数でも広い範囲を同時に監視し、接近する敵に先手を打つことができた。

カステッロ・ディ・ジュリオIIの屋上全景、煉瓦の胸壁が並ぶ広いテラス

② 射撃孔(ルーパ)からの安全な狙撃

壁に空いた穴は、弓矢・クロスボウ・火縄銃などの射撃孔として使われていた。 外からは内部が見えにくいのに、内部からは角度をつけて敵を狙えるため、 守備側だけが一方的に攻撃できる、極めて合理的な防御構造だ。 敵が近づくほど狙いやすくなるため、接近戦に持ち込まれる前に撃退できた。

砦の壁にあいた射撃孔の内部から外を覗く様子

③ 中庭の“吹き抜け”は侵入者を逃がさないトラップ

砦中央の深い吹き抜けは、内部の採光や通気のためだけでなく、敵を封じ込める働きも持っていた。 正面玄関を破って侵入したとしても、その先で逃げ場のない空間に入り込むことになる。
上層の回廊にいる兵士たちは、石・火・熱湯・矢を一斉に浴びせることができ、 短時間で戦闘が終わっただろうと想像できる、防御側に極めて有利な構造だった。

砦内部の吹き抜け部分を屋上から見下ろした様子

④ 主塔へ続く外周ルートは「疲れ切った敵を仕留める場所」

屋上の奥へ進むと丸い主塔へ向かう細い通路が現れる。 ここに至るまでに敵は、重い鎧をまとったまま急な階段をいくつも上り、 吹き抜け沿いの細い通路を進み続けなければならなかった。
息が上がり、動きが鈍った状態でこの狭い道に押し出されると、守備側は高い位置から余裕を持って迎撃できた。 横にも後ろにも逃げられず、ここまで来た時点で勝敗はほぼ決していたと言えるだろう。

砦の外周を囲む通路と主塔の円筒構造が見える様子

⑤ 村と遺跡を見渡す「監視のための展望台」

屋上からはオスティアの村、そして遺跡へ向かう通路まで見渡すことができた。 軍事基地にとって“監視”は戦闘と同じほど重要な任務。この砦は、ローマへ通じる玄関口を守るための最前線の展望台として機能していた。 現代では穏やかな風景だが、かつてここは“ローマを外敵から守る目”そのものだったのだ。

砦の屋上から見下ろすオスティアの村と遺跡へ続く緑の道

第5章:砦の内部に刻まれた “生活” と “防御” の痕跡を歩く

Inside the fortress — rooms shaped by war and daily life.

外周ルートを巡ったあと、再び砦の内部へ戻ると、 外側の厳しい防御とは対照的な静けさが広がっています。 厚い石壁に囲まれた空間はひんやりとしていて、 まるで時間がゆっくりと滞留しているかのようです。 ここからは、主塔内部の階段室・小部屋・地下構造を歩きながら、 この場所がどんな“役割”を担っていたのか を順に辿っていきます。

① フレスコ画に彩られた階段室 —— 軍事要塞とは思えない豪華さ

フレスコ画が残る階段室1

主塔に入るとまず目に飛び込んでくるのは、壁一面に残るフレスコ画です。 軍事要塞にしては異例の豪華さですが、その理由は 建設主・教皇ジュリオ II 世(ユリウス2世) にあります。 第2章でも述べたように、彼は“戦う教皇”として軍事改革を進める一方で、 システィーナ礼拝堂の天井画や新サン・ピエトロ大聖堂を推し進めた、 ルネサンス期の文化政策を主導した人物 でもありました。

天井のフレスコ画のクローズアップ

しかし豪華さの裏には、防御上の工夫が隠れています。 階段は細く、複数人が横に並べず、 曲線階段は上からの迎撃が容易な構造です。 また、光の取り込み口が限られており、 内部が外部から見えにくいよう設計されています。 この空間は、美しさと軍事性が共存する、 非常にこの砦らしい場所だと言えるでしょう。

採光の少ない下層の小部屋

② 下層に広がる小部屋 —— 実務と生活を支えた“裏の空間”

階段を下りていくと、石壁と石床だけの質素な小部屋がいくつも現れます。 採光はほとんどなく、ひんやりとした空気が漂い、 ここが実務のための空間であったことが伝わります。

石造りの下層部屋の内部

記録は少ないものの、構造から考えられる用途は次のとおりです。

  • 武器や矢・火薬の 備蓄庫
  • 兵士の 控え部屋(待機スペース)
  • 修繕道具や物資を置く 作業用倉庫
  • 緊急時の 簡易拘束室
円形の沈床構造

③ 円形の沈床構造 —— “地下浴室(ラコニクム)”だった可能性

主塔のさらに下層へ進むと、同心円状に段が切られた独特の円形空間が現れます。 この構造については決定的な史料が残っておらず、 その用途は完全には解明されていません。 しかし、形状・深さ・通気孔の配置から、 “蒸気浴室(ラコニクム)=サウナ的空間”だった可能性 が専門家の間で指摘されています。

古代ローマの浴場では、高温の蒸気を満たすために円形の沈床構造がよく用いられました。 同心円状の段差は熱を均一に巡らせ、天井のアーチと組み合わせることで 効率よく室内を加熱することができます。 この地下空間でも、熱気を循環させやすい形状が確認でき、 ローマ浴場の建築技法との共通点が多く見られます。

また、この砦が位置するオスティアは湿地帯が多く、 疲労や疾病予防のために“蒸気浴”が重宝された地域でもあります。 そのため、この空間が

  • 兵士や管理官の衛生管理・疲労回復のための小型浴室
  • 冬季に体を温めるための蒸気室
  • 暖炉で熱した空気を送り込む“簡易ハイポコースト構造”

として使われていた可能性は、建築的にも地理的にも十分に考えられます。

もちろん、別の機能 —— たとえば物資の保管庫や主塔を支える基礎構造という説も残されています。 しかし、円形・沈床・通気孔という三つの特徴が揃う空間は浴室にも適しており、 “この砦における生活機能の一部だった可能性は高い” と言えるでしょう。

円形の沈床構造

④ 生活・見張り・儀礼が混在した“複合的な内部空間”

内部を歩いて実感するのは、 この砦が単に戦うためだけの建物ではなかったという点です。 部屋数は少なく規模も小さいものの、 短期的な滞在や見張り、作業のために必要な空間は整えられていました。

内部に残る痕跡から読み取れる役割は次のとおりです。

  • 見張り役の 休憩スペース
  • 軍事的実務のための 武器庫・作業部屋
  • 迎賓空間としての フレスコ画室
  • 短期間の 生活空間

⑤ 500年の時間で用途が変わり続けた部屋たち

この砦は完成から500年以上の間に用途を変え続けてきました。

  • 15〜16世紀:ローマ教皇領の 防衛拠点
  • 中世末期:港の監視・物資検査など 実務的利用
  • 近世:廃城化し、倉庫・監視所として再利用
  • 20世紀:文化財として修復・保存
  • 現在:展示室として一般公開

豪華な装飾と素朴な石室が同居しているのは、 この用途の変化の積み重ねがそのまま残っているためです。 砦の内部は、単なる遺構ではなく、 時代ごとの役割が層となって残る“立体の歴史書”のような空間です。

あとがき

A quiet memory around the ancient river.

この砦の周りには、今も小さなボルゴ(集落)が残っています。 石畳の路地、素朴な家並み、教会の鐘、そして街角の水飲み場。 古代遺跡とは異なる、中世の時間がそのまま息づく一帯です。

道路を一本渡れば、駅と車の音が行き交う“現代”のローマがすぐそこにあります。 その手前には、広大なオスティア遺跡が静かに横たわり、 そしてこの砦と小さなボルゴだけが、中世の時間を今に伝えています。 古代・中世・現代がひとつの景観に重なるこの場所には、 時代の境目がふっと曖昧になるような、不思議な奥行きがありました。

小さな砦を歩き終えたあと、外へ出るとすぐに人々の暮らしの気配が戻ってきます。 砦は孤立した遺構ではなく、生活のリズムに溶け込んで存在している。 その自然な重なり方が、この地域の魅力のひとつだと感じました。

オスティア遺跡のような壮大な古代都市とは違う、もうひとつのローマの入り口。 カステッロ・ディ・ジュリオ II(ユリウス2世の城))とその周辺のボルゴは、 旅の最後に静かな余韻を残してくれる場所でした。