生ハムとブッラータチーズ、アンティパストの象徴的な一皿
Italia / Antipasto

皿の上から始まる旅

イタリアの前菜「アンティパスト」が語る歓迎

序章:皿の上から始まる旅
― 小さな一口から始まる時間 ―

イタリアで食事が始まるとき、最初に運ばれてくる小さな一皿には、料理以上の意味が込められていることがあります。 生ハムの塩気、チーズのやわらかさ、オリーブオイルの香り。それらは「これから始まる時間を、ゆっくり味わってください」と言葉にせずとも伝えてきます。

アンティパストとは、イタリア語で「食事の前(ante-pasto)」を意味します。けれどその一皿は、時に 食事の前ではなく、旅の前に置かれるもの に感じられることがあります。 知識として知る前に、感覚として受け止める。説明される前に、歓迎される。

パスタでもピザでもなく──
ほんの一口から始まる、小さな旅。
それが、イタリアの前菜です。

第1章:前菜という文化
― 前菜という文化 ―

イタリア語の “antipasto” は、文字通り「食事の前にあるもの(ante + pasto)」を指します。 古代ローマ時代には、宴の前に胃を整え、食卓へ気持ちを誘う役割を担っていたと伝えられています。
時代の移り変わりとともに形を変え、ルネサンス期以降は現在のような「食事の始まり」を示す一皿として定着していきました。

ただ旅先でその皿が運ばれてきたとき、そんな背景を意識していたわけではありません。
目の前に置かれたひと皿が、言葉ではなく、香りや温度で「ようこそ」と語りかけてくる―― その感覚が、文化の理解よりも先に心に届くのだと思います。

現代のイタリアでは、前菜は形式的なものではなく、季節や地域、そして食べる人との距離によって姿を変えます。 仕事終わりのアペリティーボとして軽くつまむこともあれば、家族や友人とシェアしながらゆっくり楽しむこともある。 時には、メイン料理と比べても遜色のない存在感で登場します。

共通するのは、どの前菜も 「この土地はこんな味で始まる」という、小さな宣言であること。 お腹を満たすためではなく、旅の扉を静かに開くための最初の一口。

アンティパストは “食事の前” であると同時に、“その土地と出会う前に食べる一皿” なのかもしれません。

ポルチーニを使った前菜。森の香りと季節を伝える一皿

森の香りが立ち上がる、ポルチーニの前菜。

第2章:盛り合わせ(misto)が語る歓迎
― 盛り合わせが語る歓迎 ―

アリアンナで提供された前菜の盛り合わせ。複数の食材が並ぶ豪華なアンティパスト・ミスト

“ようこそ、この街はこんな味で始まります”──盛り合わせ(Antipasto misto)。

前菜をひとつだけ出すのではなく、いくつもの要素を少しずつ並べる。 その形式は豪華さの演出ではなく、「この土地にはこんな表情があります」と伝えるための方法のように感じます。

皿には、肉や豆、保存された野菜、時には海でとれた魚介も添えられる。 主張しすぎることなく、互いを邪魔せずに並ぶその姿は、まるで土地の“地形図”を味で描いているかのようでした。

イタリア語の misto は「混ざり合った、多様な」という意味。 ひとつだけでは語れない土地性を、小さなサンプルのように切り取ったもの。 それが Antipasto misto です。

最初にこの皿を前にしたとき、どこから手をつけるべきか少し迷いました。
けれど、一口ずつ味わってみると、塩気や香りの濃度がそれぞれ異なり、 朝・昼・夕方という一日の時間を歩いているような感覚になりました。

白い皿に小さな景色がいくつも並ぶ。 それは案内ではなく、「どうぞ、ここから好きな順に巡ってください」という静かな差し出し方。 まさに旅の始まりにふさわしい歓迎でした。

盛り合わせは、ひとつの味を強く伝えるものではなく、 「1種類では伝えきれない土地の奥行き」を示すための一皿。 旅先での食事が「味わう行為」から「理解する行為」へ変わる瞬間だと感じました。

盛り合わせが土地の多様性を伝えるなら、次の章で登場するのは、陸と海、それぞれが語る “ひとつの味”です。
静かに皿へ向かうとき、旅人が最初に選ぶことになる前菜の話です。

第3章:今日はどちらを選ぶ?
― 肉と魚の前菜 ―

盛り合わせが旅の扉を開く一皿だとしたら、次に現れる前菜は、「今日の自分がどこへ進むか」を選ばせる一皿でした。 それが、肉と魚という二つの前菜です。

しっかりと火入れされた肉の前菜。食欲が静かに高まる一皿

ゆっくり時間をかけて味わいたくなる、肉の前菜。パンと一緒にメインにも。

内陸部では、保存や火入れで旨味を凝縮した肉の料理が多く、しっかりとした味わいは、「落ち着いて味わいたい夜」に寄り添います。トスカーナやピエモンテなど、陸の恵みとともに暮らしてきた地域では、シンプルで力強い味わいが“その日の主張”になることもあります。

海で採れた魚介を使った前菜。爽やかで軽やかな味わい

海風のような軽さが心地よい、魚介の前菜。

一方、海に近い町では、朝に水揚げされた魚介をレモンやオリーブオイルだけで仕上げることも珍しくありません。

ラツィオ州の港町オスティアでは素朴に、リグーリア州(ジェノヴァ)ではバジルやハーブを加えて軽やかに。
同じ海の前菜でも、地域によってその表情は変わります。

軽やかな味は、「会話から始めたい夜」によく似合い、オスティアのような港町では、まさに日常の始まりを告げる味でもあります。

肉と魚。どちらも前菜でありながら、その選択には、“どの土地と時間を過ごすか”という、もう一つの視点が潜んでいます。 選んだ皿によって、その夜の速度が少しだけ変わる。前菜は、料理である前に、旅の進路を指し示す小さなコンパスなのかもしれません。

次の章では、そのコンパスが少しだけ勢いを増す瞬間―― “もう少し食べたい夜に選ぶ、揚げ物の一皿”に触れていきます。

第4章:食欲を解放する夜に
― 揚げ物という選択 ―

前菜には「軽やかな始まり」のイメージがありますが、イタリアでは時に“今夜は心もお腹も満たしたい”という日もあります。そんなとき選ばれるのが、香ばしく揚げたポテトやフリットを主役に据えた一皿。

近年イタリアでは、グルメバーガーを提供する店が増えており、そこで出会う揚げ物は、単なるサイドメニューではなく、「食事のスイッチを入れる前菜」として楽しまれることもあります。

こうした揚げ物は、メニュー上ではサイドや軽食として扱われることが多いのですが、実際には「食べ始めの一皿」として選ばれることもしばしばあります。
アメリカ的なバーガースタイルでありながら、“まずはここからシェアして始めよう”というイタリアらしさが、揚げたての香りとともにテーブルに広がります。

フリットミスト:ナゲット、ポテト、オニオンリングが並ぶボリュームある揚げ物プレート。

「Fritto misto」 と呼ばれる揚げ物盛り合わせ。カジュアルな店ほど、気取らないおいしさがある。

チーズとベーコンをのせたフライドポテト2種。

グルメバーガー店で見つけた2種類のポテトフリット。塩気と熱が、食欲を引き寄せる夜にぴったり。

揚げ物は、歴史的には前菜に分類されないこともありますが、「その日の自分を満たすために選ぶ一皿」であることに変わりはありません。気軽で、少し衝動的で、それでいて美味しい。イタリアの夜には、そんな前菜だって許されるのです。

第5章:旅人のひと皿
― ホテルで味わう前菜の自由 ―

レストランで味わう前菜も魅力的ですが、旅の終盤に思いがけず心に残るのは、自分で選んで持ち帰った一皿かもしれません。

スーパーや食材店には、サラミ、チーズ、クラッカー、オリーブが一緒に並ぶ小さな前菜セットが数多く販売されています。 それをホテルの部屋に持ち帰り、ワインやビールと合わせて静かに味わう時間は、観光の余韻を自分のペースで楽しむ特別な瞬間になります。

スーパーで購入したアンティパスト用ハムのセット。Rigatino・Filetto・Salame などが入っている。

スーパーで手に取った、
「Antipasto Toscano」 のセット。旅人でも気軽に楽しめる、本格的な味。

サラミ、チーズ、オリーブ、クラッカー入りの前菜セット。ホテルでの軽食に最適。

サラミにチーズ、オリーブ、クラッカー。
「今日はワインにしようか、ビールにしようか」そんな選択の余白を残してくれる一皿。

旅先での外食は華やかですが、選んだ前菜で一日を締めくくる時間は、むしろ静かで贅沢です。食べ方も、量も、飲み方も、自分のままでいい。

形式にとらわれず、「その日一番食べたいもの」を選ぶ自由。それもまた、イタリアの前菜が持つ魅力の一つです。

あとがき:前菜から始まる旅
― 前菜から始まる旅 ―

ホテルのビュッフェで、色とりどりの小皿が並んでいるのを見ると、少し嬉しくなる。イタリアの前菜盛り合わせも、その感覚に近い気がする。
華やかな一皿に、食べたいと思えるものが程よく乗っていて、それだけで食事のリズムが整い、気持ちがふっと上向く瞬間がある。

前菜がなくてメインだけが出てくると、どこか心が追いつかないことがある。けれど、Antipasto → Primo → Secondo → Dolce と進むイタリア式の食事は、お腹だけでなく、“食事という体験そのもの” を満たしてくれる流れになっている気がする。

イタリア旅行はパスタやピッツァで語られることが多いけれど、本当に旅の扉を開くのは、最初の一皿なのかもしれない。自分のペースで、一口ずつ味わえる“余白”があるだけで、心地よさが生まれる。

― 次にイタリアを訪れるときも、私はきっとまた前菜から始める。


📅 初回公開:2025年11月23日
🔁 最終更新:2025年11月23日